「クリムト展 ウィーンと日本1900」に行きました。
あんなに混むとは予想外。
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)はウィーンを代表する画家です。
1862年7月14日生まれ。
1918年2月6日に56歳でスペイン風邪と脳梗塞で亡くなりました。
享年56歳。
展覧会のタイトルに日本が入っていますが、クリムトは日本の着物などの柄にとても影響を受けたそうです。
作品の女性の衣服の柄や背景が、なるほど日本的だわ、と思わせるパターンがたくさんあります。
クリムト展は上野公園内の東京都美術館で7月10日まで開催されていました。
ここかな?と思ったら違った。上野公園は広い
美術館を探しているときに出会った野口英世博士
D51が展示されているここは・・・どこ?(;^_^A
面白そうーーだけど今日の目的は美術館。美術館はどこだー!
パンダがいる動物園。行きたい・・・開園前で人が並んでいる
あった!!!やっと到着!
私は9日にすべり込むように見に行きました。
最終日は恐ろしく混むと思われたので。
その予感はたぶん当たっているはず。
9日なら大丈夫でしょう、しかも開館前だからそんなに人はいないだろうと思っていたら
これ。
動物園より列が長くない?
見終わって外に出たら、まだまだ長蛇の列、さらに加わる観覧者。
ハッキリ言ってウィーンの画家のことなんて知る人は、さほどいないだろうと思っていました。
甘かったです。
近所の東京芸大の学生もいっぱい来ていました。
のんびり行っていたら、行列で1日つぶしていたこと確実です。
美術に興味がない私がなぜクリムトを知っているのか
それは、ウィーンでクリムトの絵を見たからです。
これは、代表的な絵。
以前、オペラやオーケストラの演奏会を鑑賞するためにウィーンを旅行しました。
演奏会は夜なので、昼はとうぜん観光です♪
ウィーンというのはオーストリア国の1大都市。
ハプスブルク家が帝国を築いていたころの宮殿がウィーンの街にどどーんとあり、トラムや電車で移動すると、別の宮殿がどどーんとあり、という王政国家でしたが、今は違います。
クリムトのウィーン分離派の展示館はそのウィーンの街中にあり、キャベツのようなものが上にのっています(笑)
あと、ベルヴェデーレ宮殿にもクリムトの作品が展示されています。
2月の寒い時期なのでちょっと寒々しい
日本で「クリムト展」を催すと、前記のようにたくさんの人間が押しかけてきますが、ウィーンでは常設なので、余裕をもって鑑賞できます。
それでも観光コースに入っているので来訪者は多いし、学校の芸術鑑賞コースにもなっているので子供たちも多い。
ウィーンでゆったり鑑賞した記憶そのままで東京の美術館に行きました。
その結果が、あれだ・・・
ウィーンのお土産やさんに行けば必ずあるクリムトの絵がいくつか東京にも来ていました。
そして日本の美術館所蔵の品や、個人所蔵の品もあり、かなり楽しめました。
今回、日本に来なかった絵の中でひとつ、とても印象的な絵が、これ。
ベルヴェデーレ美術館(ウィーン)のパンフレットより
これはウィーンで見ることができます。
ぜひ、ウィーンへ♪
あと、以下でご紹介する「ベートーヴェン=フリーズ」という豪華な壁画は、今回コピーが日本にやってきました。
ベルヴェデーレ美術館のパンフレットより
実物はウィーンで見ることができます。
ぜひ、ウィーンへ♪♪
という感じで、あまり美術に興味がない私でも楽しめるのがクリムトです。
なぜかというと、えっ!と思う絵が多いからです。
抱き合うカップルの足元に黒い蛇がまとわりつくって、どうよ?
金箔を貼った上掛けをまとった女性のその表情、コトを終えた直後じゃない?
とか。
残念ながら日本国内の展示会は終わりましたが、本場ウィーンでの鑑賞をオススメします。
クリムトについて、簡単にご紹介
絵画や美術に興味がないと「クリムト? は、誰それ?」ですね。
実は私もでした(;^_^A
なぜかうちの職場の人たちは「名前は聞いたことあるよ」と言います。
名前すら聞いたことなかった私は、かなりの隠遁者。
クリムトといえば、官能的な女性と、金箔を貼った作品を思い浮かべる人が大多数です。
ウィーン分離派secessionの創設者メンバーのひとりで、女性遍歴も多かったと言われています。
古典芸術を表現していた時代
クリムトは芸術に長けた一家で育ち、ウィーン美大に入学しました。
当時ウィーンで最高の歴史画家の先生(ハンス・マカルト)を慕って古典的画法を修め、在学中に弟たちと美大の仲間で、古典的な建築装飾画家として仕事を請け負っていました。
ウィーンの美術史美術館の装飾やリングシュトラーセの公共建築物の内装壁画や天井画などに作品が残っていて、とても有名です。
そう、とても有名になったので、ウィーン大学の天井装飾画を請け負うことになります。
ところが彼が描いた「医学」「法学」「哲学」をテーマにした壁画は、性的で大学の勉学スタイルと異なるとかなりの批判を浴びました。
そこで彼は報酬を全額返還し、自身の作品を大学から引き上げました。
このときの作品はナチスに焼かれて存在せず、写真のみが残っています。
この大学事件がクリムトの名を一層知らしめることになりますが、彼はこれを境に公的な仕事に消極的になっていきました。
ウィーン分離派(ゼセッション)での活躍
クリムトと言えばウィーン分離派(Secession)の創設者としても知られています。
型破りなスタイルの若い芸術家の発掘や作品の発信を目的としていて、「~派」という割には独自のスタイルを定めていません。
ウィーン分離派の展示館「ゼセッション館」ではクリムトが手がけた壁画「ベートーヴェン=フリーズ」を見ることができます。
グスタフ・クリムト - Wikipediaより、ベートーヴェン=フリーズ締めくくりの絵
オーストリアの大作曲家ベートーヴェンを讃える作品ですが、ウィーン国家はこの作品を許容せず、以後、クリムトは国のバックアップを失うことになります。
まあ、これは上記の現物を見るとわかります。
交響曲第9番「歓喜の歌」が流れる石壁の展示場に入ると、ベートーヴェンの楽曲を表現した絵がぐるっと描かれています。
最後は「官気(官能の気分)の歌」じゃないか、という絵で締めくくられていて・・・というのは私の勝手なイメージ。
王様や貴族は表立って「けしからん!」と言うしかなかったんじゃないかな。
クリムトの描く女性画
その後は、今ではよく知られているエロティックな人物画を多く残しています。
どんな女性を描いても、彼女たちの中にあるエロティシズムをキャンバスに引き出したのがクリムト。
パトロンがひっきりなしにやってきたと言います。
初期の古典的な絵の中にも独自の、ある意味神聖さを冒涜するような表現が見受けられます。
独特な構図の中に描かれた女性たちの官能的な表情に、見ているこちらが恥ずかしくなってきます。
澄ました顔のモデルから、エロティックな表情を引き出したのか、それともこんな顔をするだろうと想像して描いたのかは不明です。
クリムトの女性遍歴はとても有名で、子供が14人います。
彼の家には常に女性のモデルがたくさん住まい、中には彼の子供を授かる人もいました。
以前にクリムトのラジオドラマが放送されたとき、どの女性に対しても真剣で、でも現実の生活を見ていないクリムトに別れを告げるのは女性たちから、というように描かれていました。
のちに、大作曲家マーラーの妻になるアルマも、クリムトの何番目かの恋人でした。
クリムトはまじめにお付き合いしていましたが、アルマも色を好むタイプで、次の恋人を見つけて去っていきます。
「芸術家、色を好む」という言葉をふと思い出しました。
一番仲の良かった女性と、晩年
クリムトが一番親しかった女性はエミーリエ・フリーゲ。
弟のお嫁さんの妹で、ブティックを経営している、当時はかなりやり手の女性実業家です。
彼女のファッションについての知識や感覚を、クリムトはとても心地よく受け入れていたことがわかります。
親しいというのは、まあ時に男女の関係はあったでしょうが、理解しあえる真の友だったようです。
愛人とも言われていますが、もしも愛人だとしたら、精神的にも経済的にも独立した愛人です。
これはクリムトとエミーリエだと言われています(ベルヴェデーレ美術館のパンフより)
そして、オーストリア帝国の終焉とともに、クリムトも脳梗塞と肺炎で死去。
クリムトの多くの作品はウィーンに残り、また個人所有もかなりあります。
日本の企業や美術館もけっこう所有しているようです。
しつこいようですが、クリムトに興味を持たれた方は、ウィーンで作品を鑑賞することをおススメします。
ウィーンの街はハプスブルク家が帝国を築いたころからあまり変わらず、新旧がほどよく混合しています。
要するに、クリムトが生きていた時代とあまり変わらないというか。
クリムトが見た、感じた街で、彼の作品を見ると、より理解が深まる気がします。
というわけで、ぜひウィーンへ。
私もまた行きたい(笑)